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実際に体験しないと戦争は描けないのか?
ごめんなさい、メールとか拍手とかコメントとかのお返事がことごとく滞っているけれど、今日はどうしても今思ったことを書かないといけない、というか気持ちが収まらないので、書きます。

すごくすごく支離滅裂で感情的な文章の稚拙な愚痴に近いです。
スルー推奨で。



「なぜ海外に行かないの?」「戦地に行かないの?」「体験しないと分からないよ。」「自分の目で見ないと理解できないよ。」「あなたが描いているのは、平和な場所にいる人間の妄想だよ」

最近、戦争をテーマにした作品を描いたり、あるプロジェクトの意見をいろいろと聞く中で、色んな人たち、特に海外を体験した方々からこんな感じのご意見やご感想をいただきました。


あのね、確かにそれは一理あると思う。それは正しいと思う。だから実際に、将来的には自分も必ず中東地域に行くつもりでいるし、戦争を考える上で、それはすごく貴重で価値のあることだと思う。
でもさ、自分はそれが全てじゃないと思うんだ。

例えば、小説とかでよくあるんだけど、人を殺さないと殺人を犯した人の話は書けないんだろうか?家族や恋人が死んだ悲しみは?子どもが生まれる幸せは?人を愛することは?

確かに体験しないと「理解」することは難しいかもしれない。でも、少なくても自分は、同じ人間として「想像」することはできると思う。というか「想像する」「思いやる」ということこそ、戦争や平和を考える上で、一番大事なことだと思ってる。

現地に行かないとわからないなら、作品を作る意味ないじゃん。作品を見た人も、現地に行かないと理解できないことになるんだから。事実とか現実を知りたいというなら、そもそも写真や音声や動画や、あるいは統計的な資料やデータや証拠であるべきで、それはイラストや絵本に求められている役割とは違うと思うんです。

そしてなにより、「体験する」ということは、事実に束縛されちゃう、主観的になっちゃうってずっと思ってる。


よく「原爆」とか「空襲」体験を元に作られた平和教育の作品って、「こんなひどい目にあった、こんな悲惨な出来事があった。だからもう戦争なんてこりごりだ。平和がなにより大切だ。」っていうお話が多いよね。

それは、その人が確かに体験して思ったことかもしれない。事実そうなんだと思う。でもさ、その作品を見たとき、私たちは忘れてる。原爆の業火に焼かれながら、「この仇を取ってくれ。この恨みをはらしてくれ。」そう、思った人だって絶対にいたってことを。

生き残った人だってそうだよ。親しい友だちや、愛する家族や、最愛の恋人を、目の前で殺されて、いったい誰が平和を願えるんだろう? 少なくても自分がそうなったら、絶対に平和なんて願わない。武器を取ってでも、自分の命に代えても「この仇はきっと取るよ。この無念は絶対にはらすよ。」そう間違いなく思う。

これこそ実体験ではない「想像」だけど、誰がこの想像を否定できるだろう。日本でも、殺人事件の被害者遺族とか、「もうこんな悲劇が起きて欲しくない」という気持ち以上に、「犯人を死刑にしたい」って・・・思ってる、のに。
それが一因で実際に起こってるのが、イスラエルやパレスチナなんかの戦争なわけじゃん。イラクやアフガニスタンなわけじゃん。今のイスラエルを支持しているのも、ハマスを支持しているのも、武器を取って戦っているのも、私たちと同じ一般人なんだよ?

自分は、「戦争体験から平和を願うようになった」というお話が、嘘だなんて思わないし、戦争を考える上で、本当に貴重で重みのある、根源的な部分だと思う。そこに描かれている絵は、まだ映像や写真を記録することが今ほど一般的ではなかった時代にとっては、貴重な歴史の証言だと思う。

でも、それは戦争を体験したある人の一つの主観であって、特に今の若い世代は、そこに共感できなくなっていると思う。むしろ、「戦争体験から人を恨んだり、呪ったりするようになってしまった。人を信じられず、愛することもできない。それこそが、戦争の悲劇だ。」と言われたり、「戦争は素敵で素晴らしい。あの戦争は何一つまったく間違っていない正義の戦争であり、今でも誇りに思うし、できるならアメリカやアジアを再び占領して大東亜共栄圏を作りたい」なんて言われる方が、よっぽど戦争の狂気や平和の大切さを感じられるんじゃないかな?
これは、自分が今勝手に作ったお話だけど(いや、似たようなお話や作品はたくさんあるけど)、こっちの方が、少なくても今の若い世代には、問題定義できるような気がする。(って偉そうでごめん…)

例えば、自分がパレスチナに行く、空爆を受ける。無抵抗の人びとが死んでいく。それを体験してしまったら、絶対にその絵を描かずにいられないと思う。でも、例えそれで、パレスチナの人びとの悲しみや悲劇の本質を描けたとしても、このグローバル化した世界では、平和教育なんてするまでもなく、「戦争が悲惨」とか「悲しいこと」なんて、写真や動画のニュースで、今の若い人や無関心な人ですら、とっくに気付いてることなんだと思うよ。

で、自分は確実に「パレスチナ側」に主観的に感情移入しちゃうと思うんだよね。あるいは、まったく逆の事実を体験したら、イスラエル側に感情移入しちゃうかもしれない。それで描いた作品が、いったい今を生きる日本人に、新しく何を訴えることができるんだろう。

あるいは、パレスチナにもイスラエルにも、平和を望んでいる人がいるってのを現地で知って、それに感動して絵本を作る。でも、それも既にある番組とか、イスラエルとパレスチナの少女の文通の様子を綴った本とか、ネット上での彼らのやり取りとかで、自分は知ることができている。

どっちにしてもそれは、「戦争」ではなくて、「パレスチナとイスラエルの戦争」がテーマになっちゃうわけで、無関心層の日本人にとっては「自分とは関係ない」で終わっちゃう話なんだよね。

そういったことを描く意味がないとは言わない。むしろ実体験を元にした絵は、多くの人の心に響くかもしれない。戦地の人たちのために、その場でできることが見つかるかもしれない。新しい事実をたくさん見つけることもできるかもしれない。でもさ、絵本やイラストに求められているのって、そういうことじゃないんじゃないかな?
少なくても既に多くの人たちがそれを試みてきた以上、そして今現在、多くの優れた人たちが実際にやっている以上、今の日本で生きている自分が描くべきなのは、そこじゃないと思ってる。そして、戦地の人たちのためにできることは、この日本にいても、日常生活を営みながらでも、確実にあると思う。

事実を体験するだけじゃなくて、多くの人が体験した事実から、何を想像して何を産み出せるか。どれだけ想像し、思いやることができるのかが、戦争や平和を考える上で重要なんじゃないかな。



海外に行ってしまったら、確実に「主観」になってしまう。他の人が体験したという「お話」より、自分の目で見た「事実」を尊重してしまう。それは別に悪いことじゃないし、国際的な交流こそ、相互の理解と平和に繋がるとも強く思う。新しい発見や出会いも数多くあるんだろう。でも、少なくても今しばらくは、客観的な目線で戦争を捉えたい。なぜなら、今を生きるほとんどの日本人は、戦争なんて体験したことがないから。

自分は、井の中の蛙と言われようが、平和ボケの妄想と言われようが、その中の一人として、同じ立場と同じ気持ちを持って、どこまで戦争に迫れるのか試してみたい。
テレビや写真や動画や、現地に行った人の体験談やニュース、歴史的な資料や映像や論文、あるいは絵本や映画やマンガや小説から、今を日本で生きている同じ日本人として、どこまで考えられるか、どこまで戦争の本質とその解決の糸口を見出せるのか、なにより、戦争で苦しむ人たちのために何ができるのか、試してみたい。

そうでなければ、制作をする意味なんてない。
だって、戦争を実際に体験しないと平和を語れないのだとしたら、この世界には永遠に平和なんてやってこないのだから。


「なぜ海外に行かないの?」「戦地に行かないの?」「体験しないと分からないよ。」「自分の目で見ないと理解できないよ。」「あなたが描いているのは、平和な場所にいる人間の妄想だよ」

最近、戦争をテーマにした作品を描いたり、あるプロジェクトの意見をいろいろと聞く中で、色んな人たち、特に海外を体験した方々からこんな感じのご意見やご感想をいただきました。


あのね、確かにそれは一理あると思う。それは正しいと思う。だから実際に、将来的には自分も必ず中東地域に行くつもりでいるし、戦争を考える上で、それはすごく貴重で価値のあることだと思う。
でもさ、自分はそれが全てじゃないと思うんだ。

例えば、小説とかでよくあるんだけど、人を殺さないと殺人を犯した人の話は書けないんだろうか?家族や恋人が死んだ悲しみは?子どもが生まれる幸せは?人を愛することは?

確かに体験しないと「理解」することは難しいかもしれない。でも、少なくても自分は、同じ人間として「想像」することはできると思う。というか「想像する」「思いやる」ということこそ、戦争や平和を考える上で、一番大事なことだと思ってる。

現地に行かないとわからないなら、作品を作る意味ないじゃん。作品を見た人も、現地に行かないと理解できないことになるんだから。事実とか現実を知りたいというなら、そもそも写真や音声や動画や、あるいは統計的な資料やデータや証拠であるべきで、それはイラストや絵本に求められている役割とは違うと思うんです。

そしてなにより、「体験する」ということは、事実に束縛されちゃう、主観的になっちゃうってずっと思ってる。


よく「原爆」とか「空襲」体験を元に作られた平和教育の作品って、「こんなひどい目にあった、こんな悲惨な出来事があった。だからもう戦争なんてこりごりだ。平和がなにより大切だ。」っていうお話が多いよね。

それは、その人が確かに体験して思ったことかもしれない。事実そうなんだと思う。でもさ、その作品を見たとき、私たちは忘れてる。原爆の業火に焼かれながら、「この仇を取ってくれ。この恨みをはらしてくれ。」そう、思った人だって絶対にいたってことを。

生き残った人だってそうだよ。親しい友だちや、愛する家族や、最愛の恋人を、目の前で殺されて、いったい誰が平和を願えるんだろう? 少なくても自分がそうなったら、絶対に平和なんて願わない。武器を取ってでも、自分の命に代えても「この仇はきっと取るよ。この無念は絶対にはらすよ。」そう間違いなく思う。

これこそ実体験ではない「想像」だけど、誰がこの想像を否定できるだろう。日本でも、殺人事件の被害者遺族とか、「もうこんな悲劇が起きて欲しくない」という気持ち以上に、「犯人を死刑にしたい」って・・・思ってる、のに。
それが一因で実際に起こってるのが、イスラエルやパレスチナなんかの戦争なわけじゃん。イラクやアフガニスタンなわけじゃん。今のイスラエルを支持しているのも、ハマスを支持しているのも、武器を取って戦っているのも、私たちと同じ一般人なんだよ?

自分は、「戦争体験から平和を願うようになった」というお話が、嘘だなんて思わないし、戦争を考える上で、本当に貴重で重みのある、根源的な部分だと思う。そこに描かれている絵は、まだ映像や写真を記録することが今ほど一般的ではなかった時代にとっては、貴重な歴史の証言だと思う。

でも、それは戦争を体験したある人の一つの主観であって、特に今の若い世代は、そこに共感できなくなっていると思う。むしろ、「戦争体験から人を恨んだり、呪ったりするようになってしまった。人を信じられず、愛することもできない。それこそが、戦争の悲劇だ。」と言われたり、「戦争は素敵で素晴らしい。あの戦争は何一つまったく間違っていない正義の戦争であり、今でも誇りに思うし、できるならアメリカやアジアを再び占領して大東亜共栄圏を作りたい」なんて言われる方が、よっぽど戦争の狂気や平和の大切さを感じられるんじゃないかな?
これは、自分が今勝手に作ったお話だけど(いや、似たようなお話や作品はたくさんあるけど)、こっちの方が、少なくても今の若い世代には、問題定義できるような気がする。(って偉そうでごめん…)

例えば、自分がパレスチナに行く、空爆を受ける。無抵抗の人びとが死んでいく。それを体験してしまったら、絶対にその絵を描かずにいられないと思う。でも、例えそれで、パレスチナの人びとの悲しみや悲劇の本質を描けたとしても、このグローバル化した世界では、平和教育なんてするまでもなく、「戦争が悲惨」とか「悲しいこと」なんて、写真や動画のニュースで、今の若い人や無関心な人ですら、とっくに気付いてることなんだと思うよ。

で、自分は確実に「パレスチナ側」に主観的に感情移入しちゃうと思うんだよね。あるいは、まったく逆の事実を体験したら、イスラエル側に感情移入しちゃうかもしれない。それで描いた作品が、いったい今を生きる日本人に、新しく何を訴えることができるんだろう。

あるいは、パレスチナにもイスラエルにも、平和を望んでいる人がいるってのを現地で知って、それに感動して絵本を作る。でも、それも既にある番組とか、イスラエルとパレスチナの少女の文通の様子を綴った本とか、ネット上での彼らのやり取りとかで、自分は知ることができている。

どっちにしてもそれは、「戦争」ではなくて、「パレスチナとイスラエルの戦争」がテーマになっちゃうわけで、無関心層の日本人にとっては「自分とは関係ない」で終わっちゃう話なんだよね。

そういったことを描く意味がないとは言わない。むしろ実体験を元にした絵は、多くの人の心に響くかもしれない。戦地の人たちのために、その場でできることが見つかるかもしれない。新しい事実をたくさん見つけることもできるかもしれない。でもさ、絵本やイラストに求められているのって、そういうことじゃないんじゃないかな?
少なくても既に多くの人たちがそれを試みてきた以上、そして今現在、多くの優れた人たちが実際にやっている以上、今の日本で生きている自分が描くべきなのは、そこじゃないと思ってる。そして、戦地の人たちのためにできることは、この日本にいても、日常生活を営みながらでも、確実にあると思う。

事実を体験するだけじゃなくて、多くの人が体験した事実から、何を想像して何を産み出せるか。どれだけ想像し、思いやることができるのかが、戦争や平和を考える上で重要なんじゃないかな。



海外に行ってしまったら、確実に「主観」になってしまう。他の人が体験したという「お話」より、自分の目で見た「事実」を尊重してしまう。それは別に悪いことじゃないし、国際的な交流こそ、相互の理解と平和に繋がるとも強く思う。新しい発見や出会いも数多くあるんだろう。でも、少なくても今しばらくは、客観的な目線で戦争を捉えたい。なぜなら、今を生きるほとんどの日本人は、戦争なんて体験したことがないから。

自分は、井の中の蛙と言われようが、平和ボケの妄想と言われようが、その中の一人として、同じ立場と同じ気持ちを持って、どこまで戦争に迫れるのか試してみたい。
テレビや写真や動画や、現地に行った人の体験談やニュース、歴史的な資料や映像や論文、あるいは絵本や映画やマンガや小説から、今を日本で生きている同じ日本人として、どこまで考えられるか、どこまで戦争の本質とその解決の糸口を見出せるのか、なにより、戦争で苦しむ人たちのために何ができるのか、試してみたい。

そうでなければ、制作をする意味なんてない。
だって、戦争を実際に体験しないと平和を語れないのだとしたら、この世界には永遠に平和なんてやってこないのだから。

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